推し活クロニクル 1920年代|ラジオ放送が始まり、映画スターと流行歌が全国へ。「同時に楽しむ」の原点、甲子園球場も開場
1920年代、東京ではラジオ放送が始まり、宝塚では歌と踊りを次々に見せる舞台ショー「レビュー(Revue)」が人気を集めました。映画スターを扱う雑誌や写真も売られ、劇場へ行く以外にも推しを楽しむ方法が広がった時代です。
1923年の関東大震災で、東京・横浜の劇場や映画館は大きな被害を受けました。その後の復興とともに、放送、出版、レコードの普及が進みます。東京都・関東大震災

宝塚の『モン・パリ』と、東西に広がる少女歌劇
1927年9月、宝塚少女歌劇が『吾が巴里よ(モン・パリ)』を初演しました。ここでいうレビューは、作品の批評や感想を指す英語の「Review」ではありません。歌・踊り・芝居などを組み合わせた、華やかな舞台ショーのことです。この作品は日本初のレビューとされ、幕を下ろさずに16の場面を続けて見せました。宝塚歌劇による『モン・パリ』紹介
宝塚では1924年に4,000人収容の大劇場が完成し、翌年には花・月・雪の3組が交代で公演を行う体制が整いました。レビューの人気とともに、女学生を含む女性の観客が増えていきます。宝塚歌劇の歩み/渡邊千明『立命館文學』690号
1928年には、東京松竹楽劇部も発足しました。
浅草オペラのファン「ペラゴロ」が、客席から名前を呼ぶ
1917年から人気を集めた浅草オペラには、「ペラゴロ」と呼ばれる熱心なファンがいました。沢モリノや河合澄子が登場すると、客席から名前を呼ぶ声が上がり、台詞が聞こえないほどだったとも伝えられています。浅草オペラ
今のライブのコールにも通じる、観客が声を出して応援する行動です。ただし、現在のコールが浅草オペラから直接受け継がれたとまではいえません。
関東大震災で劇場が被災し、浅草オペラは衰退しました。1925年にはその興行が終わりを迎えます。舞台の人気があっても、上演する場所を失えば活動を続けるのは困難でした。
レコード会社が日本での事業を拡大。「東京行進曲」がヒット
1924年、輸入する蓄音器とレコードに、輸入価格と同額の関税がかかるようになりました。外国のレコード会社は、日本での出資や提携を進めます。マイクを使って録音する新しい技術も導入されました。大久保いづみ『経営史学』49巻4号
1927年には日本ビクターが設立され、翌年には日本コロムビア蓄音器が発足しました。国立国会図書館・日本ビクター/同・日本コロムビア
佐藤千夜子が歌った「東京行進曲」は、1929年5月に発売され、25万枚以上を売り上げました。同名映画の公開は、その約1か月後です。映画を見る前に主題歌を知るという、今にも通じる宣伝方法でした。「東京行進曲」
新しい流行歌が話題になる一方、レコード会社は浪花節など、物語を語る従来の芸も録音していました。レコードで聴かれたのは、流行歌だけではありません。
東京放送局のラジオが始まり、年内に聴取契約12万超へ
1925年3月22日、東京放送局が試験放送を始めました。開始時の聴取契約者は5,455でしたが、同年11月末には12万を超えています。翌1926年には東京・大阪・名古屋の放送局が統合され、日本放送協会が発足しました。日本ラジオ博物館/日本放送協会の沿革解説
ラジオでは、離れた場所の人々が、放送時刻に合わせて同じ番組を聴けました。この年代に始まった番組には、次のようなものがあります。
大衆雑誌『キング』と、スター一人を扱うファン雑誌
1925年に創刊された『キング』は、小説や読み物などを載せた大衆娯楽雑誌です。定価は50銭で、1927年4月号には発行部数が100万部を突破しました。これは発行した冊数で、読者の人数そのものではありません。印刷博物館/講談社の記録
- 幅広い読者へ大衆雑誌『キング』
- 小説など、さまざまな読み物を一冊にまとめた雑誌。
- 一人のスターのファンへ『吾等の阪妻』
- 1926年創刊。映画スターの阪東妻三郎を扱う雑誌。「阪妻」は、妻三郎の愛称です。
- 宝塚のファンへ『歌劇』
- 公演や出演者について読む機関誌。1921年から月刊となり、読者が意見を寄せる投稿欄もありました。
スター一人の雑誌には、ほかに『勝見』『月形時代』もありました。推しについて続けて読める出版物は、映画館の外でファンを支える存在です。国立映画アーカイブ/宝塚歌劇の歩み
スター写真を集めるファンと、「ミーハー」の語源説
1921年に浅草で創業したマルベル堂は、スターの写真を「プロマイド」として販売しました。劇場や映画館で見た推しの姿を、写真で手元に置く楽しみが広がります。マルベル堂
この頃の人気俳優が、林長二郎です。のちに長谷川一夫と名乗るこの映画スターは、「ミーハー」の語源説にも登場します。
その説では、当時人気だった甘味の「みつ豆」の「ミ」と、「林長二郎」の「ハ」を合わせたのが「ミーハー」だといいます。甘いものと映画スターに夢中になる若い女性を指した、という説明です。ただし、「みいちゃんはあちゃん」の略という説もあり、語源は一つに定まっていません。婦人公論.jp「ミーハー」の語源紹介
野球人気を受け、甲子園と神宮に大きな球場が誕生
学生野球の観客が増え、既存のグラウンドでは収容しきれなくなりました。関西と東京で、大規模な球場の建設が進みます。
- 1924年
- 1926年
応援する学校や選手を見に行く人々のために、観客席のある専用の球場が整いました。試合の場と、観客が集まる場の両方が広がった形です。
銀座のモガ・モボと、ジャズで踊る若者たち
震災後の東京では、洋服や新しい髪型を楽しむ若者が「モダンガール」「モダンボーイ」、略して「モガ」「モボ」と呼ばれました。特定の芸能人のファンを指す言葉ではなく、当時の新しい装いや暮らし方を表す呼び名です。
モガ=モダンガール
短く切った髪、洋服のスカート、深くかぶる釣鐘形の帽子などが特徴でした。
モボ=モダンボーイ
山高帽子や眼鏡、細身のステッキなどを取り入れた洋装の若者です。
こうした装いは、当時の社会では批判されることもありました。一方、ダンスホールではジャズに合わせて踊る文化が広まり、若者の間では、自分で踊る娯楽も人気になります。モダンガールの解説/関西大学・ジャズ研究の紹介
この10年の主な出来事
- 1922年4月松竹楽劇部が創設、宝塚に対する少女歌劇に舞台
- 1923年9月関東大震災、東京・横浜の興行街が壊滅メディア
- 1924年8月阪神甲子園球場が開場、総収容8万人スポーツ
- 1925年1月講談社が大衆娯楽雑誌『キング』を創刊メディア
- 1925年3月東京放送局(JOAK)がラジオ試験放送を開始メディア
- 1925年阪東妻三郎プロダクションが京都太秦に設立映画
- 1926年10月明治神宮野球場が竣工、六大学リーグ戦に初使用スポーツ
- 1927年4月『キング』が発行部数100万部を突破メディア
- 1927年9月宝塚『モン・パリ』初演、日本初のレビューに舞台
- 1928年1月佐藤千夜子「波浮の港」がビクターから発売音楽
- 1928年8月松竹楽劇部が浅草で「虹のおどり」、東京進出舞台
- 1928年11月ラジオ体操が東京中央放送局で放送開始メディア
- 1929年5月「東京行進曲」が発売、25万枚以上を売る音楽
この時代の言葉
- モガ・モボ
- モダンガール・モダンボーイの略。震災後の東京に現れた洋装・断髪の若者を指す
- 日本一面白い、日本一為になる
- 雑誌「キング」の売り文句。大衆娯楽誌の宣伝文句の代表格になった
- 甲子園
- 本来は1924年の干支を指す語。球場の開場を機に野球の代名詞へ変わっていく
- 電気吹込
- 1927年前後に欧米から導入された録音方式。歌の届け方を根本から変えた
図の「断髪」は、今でいうショートヘアです。「電気吹込」は、マイクを使って声や演奏を録音する方式を指します。
次の推し活クロニクル 1930年代では、映画に俳優の声が付き、男役スターのファンクラブも大きくなります。
よくある質問
1920年代は推し活史でどんな10年でしたか?
ラジオ放送が始まり、映画スターの雑誌や写真、流行歌のレコードが広まった10年です。劇場や球場へ出かけることに加え、家庭で番組や出版物を楽しむ方法も増えました。
日本のラジオ放送はいつ始まりましたか?
1925年3月22日に東京放送局が試験放送を始めました。開始時の聴取契約者は5,455でしたが、同年11月末には12万を超えています。
日本で最初の舞台レビュー(Revue)は何ですか?
ここでいうレビューは、批評(Review)ではなく、歌・踊り・芝居などを組み合わせた舞台ショーを指します。日本初とされるのは、1927年9月1日に宝塚少女歌劇が初演した『吾が巴里よ(モン・パリ)』です。岸田辰彌の作で、登場人物は延べ250人、幕を下ろさない16場という規模でした。
ペラゴロとはどんな人たちですか?
浅草オペラの熱狂的なファンを指した言葉です。沢モリノや河合澄子が登場すると「モリノ!」「澄子!」という掛け声で客席が埋まり、台詞が聞き取れないこともありました。
大衆雑誌『キング』はどれくらい売れたのですか?
1925年1月号として定価50銭で創刊し、1927年4月号で発行部数100万部を突破しました。日本の出版史で初めて100万部に達した雑誌です。



