推し活クロニクル 1940年代|戦時下の統制から「リンゴの唄」へ。戦後の芸能が動き出した10年、ラジオの「のど自慢」も始まった
1944年3月、第二次世界大戦の戦時下で、宝塚大劇場と東京宝塚劇場に閉鎖命令が出ました。推しの舞台へ通ったり、好きな歌を聴いたりする楽しみにも、戦争の影響が及んだ出来事です。
1945年の敗戦後は、劇場の公演が再開し、ラジオでは一般の人が歌を披露する「のど自慢」も始まります。娯楽が厳しく制限された時期と、歌や舞台を再び楽しむ動きの両方があった10年でした。

戦時下では、聴ける音楽や上映できる映画が制限された
1940年には全国のダンスホールがほぼ閉鎖され、ジャズは「敵性音楽」として排除の対象になりました。これは、戦争の相手国の音楽を敵視した当時の呼び方です。関西大学のジャズ研究紹介
1943年1月、内務省と情報局は米英の音楽を収めた1,126枚のレコードについて、演奏や発売を禁じる通達を出します。昭和館には、この指定を報じた当時の新聞などが紹介されています。昭和館
映画にも検閲がありました。1939年の映画法は、行政の検閲に合格した作品でなければ上映できないと定めています。歌だけでなく、俳優の出演作を見られるかどうかにも、国の方針が関わっていました。文部科学省・映画法
李香蘭の公演に人が集まり、歌手は慰問にも出向く
娯楽への制限が強まる中でも、スターを見たいという関心はありました。1941年2月、東京・有楽町の日本劇場で『歌ふ李香蘭』が開かれると、多くの人が押し寄せ、警官が整理に出動する騒ぎになっています。当時の新聞をたどる記事
一方、歌手が病院や工場、戦地などへ出向く「慰問」も行われました。笠置シヅ子は1943年に楽団を結成して全国を回ります。ジャズの演奏が難しい状況で、歌う曲にも戦時下の制約がありました。日本コロムビア・笠置シヅ子
戦地へ届ける慰問袋に、レコードが入れられることもありました。霧島昇の「誰か故郷を想わざる」も、そのように届けられた曲です。霧島昇の記録
慰問の公演や品物は、戦争の動員や統制とも結びついていました。現在のファンが自由に公演を選び、推しに会いに行く活動とは、参加する事情が異なります。
宝塚は公演を再開。東京では別の劇場を借りる
1944年3月の閉鎖命令で、宝塚では上演中の公演や稽古が中止されました。松竹歌劇団も、本拠地の浅草国際劇場が軍需工場に転用され、活動を続けられなくなります。宝塚歌劇の歩み/松竹歌劇団の歴史
敗戦後、公演は少しずつ再開しました。ただし、もとの劇場をすぐに使えるわけではありませんでした。
- 1944年3月
二つの劇場に閉鎖命令
宝塚大劇場と東京宝塚劇場の公演が止まります。
- 1946年4月
宝塚大劇場で公演再開
雪組の『カルメン』と『春のをどり・愛の夢』を上演。公式史は2年2か月ぶりの公演と記しています。
- 1947年4月
東京公演は日本劇場で再開
東京宝塚劇場は接収中だったため、別の劇場を借りて公演しました。
ラジオで「紅白音楽試合」と「のど自慢」が始まる
1945年の大みそか、NHKラジオは『紅白音楽試合』を放送しました。歌手を紅組と白組に分けたこの番組が、1951年に始まる『紅白歌合戦』につながります。『紅白音楽試合』の記録
翌1946年1月19日には、「のど自慢素人音楽会」が始まりました。歌手の歌を聴く番組とは違い、一般の人が応募して人前で歌う公開番組です。「のど自慢80年」
1947年には、菊田一夫のラジオドラマ『鐘の鳴る丘』も始まります。音楽だけでなく、声の演技を通して物語を楽しむ番組も、家庭へ届けられていました。放送ライブラリー
「リンゴの唄」「東京ブギウギ」、そして美空ひばり
1945年10月に公開された松竹映画『そよかぜ』の主題歌が、並木路子の歌う「リンゴの唄」でした。霧島昇との共唱によるレコードは翌年1月に発売され、1947年末までに12万5,000枚を売ったとされます。松竹・作品紹介/「リンゴの唄」の記録
笠置シヅ子の「東京ブギウギ」は、1947年に日本劇場で披露され、1948年1月にレコードが発売されました。舞台や映画、レコードで同じ歌に触れ、歌手の存在を知る機会が増えていきます。日本コロムビア
1949年には、美空ひばりの「悲しき口笛」が9月にレコードで、10月に同名の映画で登場しました。レコードは当時45万枚を売り上げたとされます。美空ひばり公式年表/「悲しき口笛」の記録
推しの歌をレコードで繰り返し聴き、出演する映画も見に行く。映像作品と音楽の両方を楽しむファンの行動が、この時代にも見られました。
雑誌『平凡』で、スターの写真や読者の投稿を読む
1945年11月には、文芸娯楽雑誌『平凡』が創刊されました。1948年からは歌や映画を中心に、写真ページ、連載小説、読者の投稿などを載せる雑誌となります。『平凡』の歴史
読者はスターの姿を見るだけでなく、同じ雑誌を読む人の投稿にも触れられました。SNSのない時代、編集部を通してファンの声がほかの読者へ届く場所の一つが、雑誌でした。
音楽を家庭で聴くためのレコードも、生産が回復していきます。日本レコード協会の統計では、1946年の642万枚から、1949年には1,686万枚まで増えています。公演や放送に加え、推しの録音を買って手元に置く楽しみも広がっていきました。日本レコード協会
この10年の主な出来事
- 1940年全国のダンスホールが年内にほぼ閉鎖される音楽
- 1941年2月日劇『歌ふ李香蘭』に群衆が押し寄せる舞台
- 1943年1月米英音楽1,126枚の演奏・発売が禁じられる音楽
- 1943年5月笠置シヅ子が楽団を結成し、全国を慰問音楽
- 1944年3月宝塚大劇場・東京宝塚劇場に閉鎖命令舞台
- 1945年9月GHQがプレス・コードを発出、検閲が始まるメディア
- 1945年10月松竹『そよかぜ』封切り、「リンゴの唄」が広まる音楽
- 1945年11月有楽町の日本劇場が再開、笠置シヅ子も活動を再開舞台
- 1945年12月NHKラジオで『紅白音楽試合』を放送メディア
- 1946年1月NHK「のど自慢素人音楽会」放送開始メディア
- 1946年4月宝塚大劇場が2年2か月ぶりに公演を再開舞台
- 1946年8月川上哲治が「赤バット」を使い始めるスポーツ
- 1947年7月ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』放送開始メディア
- 1947年9月笠置シヅ子「東京ブギウギ」を録音音楽
- 1948年1月日本動画株式会社(後の東映アニメ)設立ビジネス
- 1949年9月美空ひばり「悲しき口笛」発売、同名映画も公開アイドル
この時代の言葉
- 敵性音楽
- 内務省・情報局がジャズなど欧米由来の音楽を排除するために用いた言葉。ダンスホールの閉鎖と一体で語られる
- 慰問
- 軍隊・工場・病院などへ演者が出向く公演。戦時の動員や統制の下で行われた
- ブギの女王
- 笠置シヅ子の異名。「東京ブギウギ」以降、服部良一とのヒットが続いたことで定着した
- 赤バット・青バット
- 川上哲治・大下弘のトレードマークになった道具の色。個人を色で覚える呼び名
図の「赤バット」は川上哲治、「青バット」は大下弘が使ったバットに由来します。プロ野球でも、道具の色とともに覚えられる人気選手が登場していました。週刊ベースボール
次の1950年代にはテレビ放送が始まり、歌手や俳優、スポーツ選手の姿を家庭でも見られるようになります。
よくある質問
1940年代は推し活史でどんな10年でしたか?
推す場所と手段が国の統制で次々に閉じ、敗戦後に開き直った10年です。1944年3月に閉鎖命令を受けた宝塚大劇場は、1946年4月に2年2か月ぶりの公演を行いました。
「敵性音楽」とは何ですか?
内務省と情報局が米英由来の音楽を排除するために使った言い方です。1943年1月には1,126枚のレコードについて演奏と発売を禁じる通達が出され、レコード会社は社名の変更も迫られました。
紅白歌合戦の前身は1940年代にありましたか?
1945年12月31日にNHKラジオ第1で『紅白音楽試合』が放送されました。当初の案「紅白音楽合戦」はGHQが難色を示し「試合」に改められています。これが1951年の第1回紅白歌合戦につながりました。
「東京ブギウギ」はいつの曲ですか?
1947年に東京・有楽町の日本劇場で披露され、同年9月10日に録音されました。レコードの発売は1948年1月とされ、披露・録音の年と発売の年が分かれて語られる曲です。
NHK「のど自慢」はいつ始まりましたか?
1946年1月19日に「のど自慢素人音楽会」として放送を開始しました。ラジオニュースで参加者を募ると希望者は900名を超え、1日300人ずつテストして出演者を選んだと伝えられます。
美空ひばりはいつデビューしたのですか?
1945年12月に横浜・磯子の杉田劇場で初舞台を踏みました。1949年6月にレコード初吹込、9月発売の「悲しき口笛」と10月公開の同名映画で広く知られるようになります。



