推し活クロニクル 1930年代|男役スター水の江瀧子と2万人のファンクラブ、「東京音頭」大ヒット、双葉山の69連勝に沸く
1930年代、日本では、映像に合わせて俳優の声や音楽を再生する映画「トーキー」が広がりました。無声映画ではかなわなかった、推しの俳優の声を作品の中で聴く楽しみが、ここから始まります。
歌劇のスターには大きなファンクラブができ、ラジオでは相撲や野球の試合が伝えられました。一方、年代の後半には戦争の影響が強まり、歌や映画にも制限が及んでいきます。

映画に声がつき、雑誌でもスターの情報を読む
1931年8月、松竹の『マダムと女房』が公開されました。日本初の本格的なトーキー映画とされる作品で、その年のキネマ旬報ベストテン第1位に選ばれています。松竹の映画製作史
音を録音・再生する技術が、俳優のせりふや歌声を映画の一部にしました。顔やしぐさに加え、声の響きや話し方も、推しの魅力として楽しめるようになります。
映画館の外では、スターや作品を紹介する雑誌も読まれました。『映画世界』は1931年に『映画之友』へ改題し、最盛期には20万部に達したとされます。『新映画』『映画フアン』なども創刊され、1930年代は戦前の映画雑誌が充実した時期でした。『映画之友』の記録/国立映画アーカイブ
男役スター・水の江瀧子に、約2万人のファン組織
東京松竹楽劇部の水の江瀧子は、1931年に髪を短く切り、男性の役を演じて人気を集めました。当時「断髪」と呼ばれたのは、今でいうショートヘアです。「ターキー」という愛称でも親しまれました。水の江瀧子の記録
同年秋には、ファンの組織「水の江会」が発足します。会員は日本国内に加え、当時日本の統治下にあった朝鮮・台湾にもおり、約2万人に達したとされています。
一人のスターを応援する人々が会をつくり、催しにも集まる。現在のファンクラブにも重なる活動が、この時代にもありました。
大きな劇場ができる一方、演者は待遇改善を求めた
1933年、松竹の楽劇部員たちが待遇改善を求めてストライキを行いました。「桃色争議」と呼ばれる労働争議です。水の江瀧子も組織委員長を務め、人気スターが働く環境の問題に向き合いました。松竹歌劇団の歴史
その後も少女歌劇の公演は続き、東京には大規模な劇場が開場します。
- 1934年1月東京宝塚劇場
- 有楽町に開場。客席は2,778席で、宝塚の公演を東京でも継続して見られるようになりました。
- 1937年7月浅草国際劇場
- 定員3,600人。松竹少女歌劇団の本拠地となり、多くの観客を迎えました。
宝塚では1936年に写真などを載せる月刊誌『宝塚グラフ』も創刊されました。舞台に通い、雑誌でも出演者を知るという楽しみ方が広がっていきます。宝塚歌劇の歩み
「東京音頭」は、レコードと踊り方の指導で広まる
1933年7月に発売された「東京音頭」は、発売当時に120万枚を売り上げたと伝えられています。前年に日比谷公園の盆踊りで披露された「丸の内音頭」がもとになった曲です。「東京音頭」の記録
今も、好きな曲の振り付けを覚えて踊る楽しみがあります。当時は動画の配信ではなく、人が現地へ出向いて踊り方を伝えていました。
流行歌では、藤山一郎の「酒は涙か溜息か」、ディック・ミネの「ダイナ」、淡谷のり子の「別れのブルース」もヒットします。藤山一郎/ディック・ミネ/淡谷のり子
国内のレコード生産量は1936年に2,968万枚となり、戦前のピークを迎えました。その後は1937年、1938年と減少しています。大久保いづみ『経営史学』49巻4号
双葉山の連勝と職業野球を、球場やラジオで追う
力士の双葉山は、1936年1月場所から1939年1月場所にかけて69連勝を記録しました。入場券を求めて徹夜するファンも増え、一場所の日数は11日から13日、さらに15日へと延びていきます。日本相撲協会/双葉山の記録
連勝は1939年1月、安芸ノ海に敗れて止まりました。和田信賢アナウンサーがラジオで「双葉敗れる!」と繰り返し伝えた実況も知られています。国技館へ行けない人にも、推しの力士の勝敗がその場で届きました。時事通信
野球では、1936年に7球団で日本職業野球連盟が設立されました。現在のプロ野球につながる組織です。東京巨人軍の沢村栄治は、1937年春季の最高殊勲選手に選ばれています。野球殿堂博物館・野球の歴史/沢村栄治
ラジオの聴取契約は、1932年に100万件を突破しています。観戦に出かけることに加え、実況を聴いて選手やチームを応援する方法が定着していきました。ビデオリサーチ
戦争に近づくにつれ、歌や映画にも制限が及ぶ
レコードが広まる一方、1934年7月から発行は届出制となりました。発売や配布を禁止されたレコードの一覧も記録されています。国立国会図書館
1937年に日中戦争が始まると、舞台も戦争と関わるようになります。宝塚は軍の病院で慰問公演を行い、1938年にはドイツ・イタリア、1939年にはアメリカへ公演に出向きました。海外公演は、芸術使節としての役割も兼ねたものです。渡邊千明『立命館文學』690号/宝塚歌劇の歩み
1939年の映画法では、映画の製作や配給に許可が必要となり、監督や俳優には登録が求められました。人気があり、見たい・聴きたい人がいても、それだけでは作品を届けられない時代です。日本映画の歴史
この10年の主な出来事
- 1931年5月水の江瀧子が断髪、男役スターとして人気に舞台
- 1931年8月『マダムと女房』公開、日本初の本格トーキー映画
- 1931年9月藤山一郎「酒は涙か溜息か」が100万枚超音楽
- 1931年秋「水の江会」が発足、会員は約2万人に舞台
- 1932年ラジオ聴取契約数が100万件を突破メディア
- 1933年6月松竹の楽劇部員が桃色争議、約46名を検挙舞台
- 1933年7月「東京音頭」が発売、当時だけで120万枚音楽
- 1934年1月東京宝塚劇場が開場、客席数は2,778舞台
- 1934年7月出版法施行規則でレコードが届出制にビジネス
- 1934年ディック・ミネ「ダイナ」が大ヒットに音楽
- 1936年2月日本職業野球連盟が7球団で創立スポーツ
- 1937年6月淡谷のり子「別れのブルース」が100万枚超音楽
- 1937年7月浅草国際劇場が開場、定員3,600人舞台
- 1939年1月双葉山の69連勝が安芸ノ海戦で止まるスポーツ
この時代の言葉
- 桃色争議
- 1933年の松竹楽劇部のストライキの通称。演者が労働の主体として声を上げた
- ターキー
- 水の江瀧子の愛称。断髪・男装の男役スターを指す呼び名として広まった
- 男装の麗人
- 男役スターを指す言い回し。以後の少女歌劇を語る基本語彙になった
- 新民謡
- 「東京音頭」のように、民謡の型を借りてレコード会社が作り全国へ広めた曲
「新民謡」は、昔から伝わる歌そのものではなく、民謡の形式を取り入れて新しく作られた曲です。「東京音頭」も、その一つとして広まりました。
次の1940年代では、戦時下の公演中止から、戦後の劇場再開やラジオ番組の誕生までをたどります。
よくある質問
1930年代は推し活史でどんな10年でしたか?
トーキーとラジオが同時に広がり、スターの魅力が姿だけでなく声で語られるようになった10年です。後半は日中戦争下の統制で、その声が絞られていきました。
「水の江会」とはどんな組織でしたか?
男役スター水の江瀧子のファン組織で、1931年の秋に発足しました。本土のほか朝鮮・台湾を含めて会員は約2万人とされ、1935年10月には「第3回タアキイ祭り」も開かれています。
「東京音頭」はどれくらい売れたのですか?
1933年7月にビクターから発売され、発売当時だけで120万枚とされます。レコード会社の社員が電気蓄音機を持参して全国で踊り方を指導しました。
桃色争議とは何ですか?
1933年6月から7月にかけて起きた松竹の楽劇部員による待遇改善のストライキの通称です。男役スターの水の江瀧子が組織委員長として矢面に立ちました。
双葉山の69連勝はどのように終わりましたか?
1939年1月場所で安芸ノ海に敗れて止まりました。ラジオ実況が「双葉敗れる!」と繰り返し伝え、国技館の客席からは座布団や火鉢まで投げられたと伝えられます。



