推し活クロニクル 大正時代|プールから始まった宝塚、浅草オペラへのファンレター。「カチューシャの唄」とスターの写真が家に届く
大正時代の1914年4月、兵庫県の宝塚で、少女たちによる歌劇の公演が始まりました。今の宝塚歌劇につながる最初の公演で、会場は、室内プールを改造した劇場でした。宝塚歌劇公式・110年の歩み
歌や踊りの舞台を見て、好きな出演者ができる。大正時代には宝塚や浅草オペラが人気を集め、雑誌や写真を通して出演者を知る楽しみも広がっていきます。

① 宝塚は公演、組、雑誌を一つの世界にした
最初の会場「パラダイス劇場」は、室内プールを改造したものでした。少女歌劇は1914年から1921年春まで、基本的に年4回の公演を重ねます。1918年には東京公演を行い、同年に雑誌『歌劇』を創刊しました。最初は年4冊、一冊20銭で、1921年3月から月刊になります。宝塚歌劇公式・1914年から1922年
1919年には養成会が学校と歌劇団に分かれ、公演専用の公会堂劇場も開場しました。1921年には花組と月組による二部制になり、1922年には両組を合わせて年8回の公演を行います。1924年に開いた宝塚大劇場では、花組と月組が合同で公演し、舞台転換に回り舞台も使われました。宝塚歌劇公式・110年の歩み
公演を重ねるだけでなく、学校で出演者を育て、組ごとに舞台を作り、雑誌で次の公演までの時間をつなぐ。一つの作品を見て終わるのではなく、劇団そのものの歩みを追える仕組みが少しずつ整いました。
創成期の誌面には、ファンからの投稿も載りました。舞台への感想だけでなく、劇場や観劇の仕方への率直な声も見られます。当時の雑誌を読み解いた『宝塚少女歌劇、はじまりの夢』では、そのような客席の言葉が紹介されています。集英社・書籍紹介
今、観劇後にSNSで感想を投稿し、ほかのファンの感想も読むように、『歌劇』の投稿欄では舞台についての意見を共有できました。雑誌を通じて、観客の声を読める仕組みです。
② 浅草オペラでは、観客が手紙と贈り物で近づいた
関東では、浅草に別の熱気が生まれていました。1916年に高木徳子一座が歌と踊りの舞台で人気を集め、1917年から1923年にかけては「浅草オペラ」と呼ばれる興行が盛んになります。国立国会図書館関西館「娯楽の近代」展示資料
上演されたのは西洋のオペラだけではありません。オペレッタ、歌、ダンス、笑いを交えた寸劇などが同じ街に並び、比較的安い料金も人気を支えました。西洋音楽に親しむ入口となる一方で、気軽に楽しめる大衆的な舞台だった点が、浅草オペラの特徴です。明治大学「浅草オペラとは」
熱心なファンは「ペラゴロ」と呼ばれました。東京都の文化財紹介にも、そうした人々が集まる当時の浅草の様子が記されています。東京都「浅草散策コース」
その中には、のちに知られる名前もあります。サトウ・ハチローはファンレターを書き、まだ無名だった江戸川乱歩は手製の金メダルを贈りました。のちに喜劇王と呼ばれる榎本健一も、浅草オペラでコーラスボーイを務めています。明治大学の研究紹介
浅草オペラには、手紙を書くファンも、手製の贈り物を届けるファンもいました。今も続くファンレターと同じく、客席での拍手とは別に、本人へ直接応援を伝える行動です。
③ 「カチューシャの唄」は舞台を越えて流行した
同じ大正の初め、舞台から広がった一曲がありました。松井須磨子の「カチューシャの唄」です。
1914年3月、芸術座がトルストイの小説『復活』を舞台化し、カチューシャ役の須磨子が劇中で歌いました。5月にはレコードが発売され、楽譜や小型の歌本も出版されます。国立国会図書館月報「近代日本と蓄音機」
主宰者の島村抱月は、各地の公演に先立つ講演会でも、その録音を流していました。国立国会図書館「大正デモクラシーと新しいメディア」
録音は、観劇した人が歌を聴き直すためにも、まだ見ていない人に公演を知ってもらうためにも使われました。
好きなドラマの主題歌を聴いて、場面を思い出す。先に曲を知って、作品も見たくなる。作品と音楽の間を行き来する楽しみ方は、この歌の広がりからも見えてきます。
日本コロムビアの前身は1913年に国産初の両面盤を発売し、翌1914年には両面盤の本格的な製造を始めています。舞台の歌がレコードになり、楽譜や歌本も加わることで、一曲は劇場の外へ何度も運ばれました。日本コロムビア「会社沿革」
④ プロマイドとラジオが、劇場の外へスターを運んだ
1921年、浅草にマルベル堂が誕生します。創業者の丸尾長顕は外国映画のファンで、友人の古川緑波とスター写真を集めていました。その関心から生まれた店は、スターの写真を「プロマイド」として販売します。マルベル堂公式・沿革
マルベル堂は、ファンがスターの写真を買える店でした。今の公式写真ショップに近い役割で、劇場や映画館とは別に、好きな出演者の写真を求めて訪れる場所になりました。
1923年の関東大震災は、浅草オペラの劇場街に大きな被害を与えました。日常の中にあった観劇の場所を、突然失う出来事でした。明治大学・浅草オペラの歴史
一方で1925年3月22日には東京でラジオの仮放送が始まり、7月12日から本放送になりました。音を楽しむ道具には、録音を選んで再生するレコードに加えて、離れた場所から同じ番組が届くラジオが加わります。国立国会図書館月報「ラジオ放送開始」
レコードは手元の一枚を好きな時に再生し、ラジオは決められた時刻の番組を多くの人が同時に聴くものです。どちらも劇場の外へ音を運びましたが、楽しみ方は同じではありません。プロマイド、雑誌、レコード、ラジオが並んだことで、出演者や作品との接点が公演日以外にも広がりました。
大正時代には、雑誌で公演の感想を読み、レコードで歌を聴き、スターの写真を集める楽しみが広がりました。今のファンが公演のない日にも推しの映像や曲を楽しむように、劇場の外にも推しとの接点が増えていった時代です。
大正時代の推し活年表
- 1912年4社合同で日本活動写真(日活)が創立ビジネス
- 1913年7月宝塚唱歌隊が組織され、第一期生16人を採用舞台
- 1914年4月宝塚少女歌劇が観覧料無料で初公演舞台
- 1914年5月松井須磨子の「カチューシャの唄」がレコード発売音楽
- 1915年10月読売新聞が「球狂」に「フアン」とルビを振るメディア
- 1916年5月高木徳子の一座が浅草で興行、浅草オペラが始まる舞台
- 1917年1月常盤座『女軍出征』が大当たりを取る舞台
- 1918年米騒動が全国へ波及、宝塚の機関誌『歌劇』創刊メディア
- 1919年宝塚音楽歌劇学校が設立される舞台
- 1920年松竹キネマ合名社が設立、蒲田に撮影所を開設ビジネス
- 1921年浅草にマルベル堂が創業、栗島すみ子が蒲田デビュービジネス
- 1923年9月関東大震災、浅草の興行街と宝塚の施設が被災メディア
- 1924年4,000人収容の宝塚大劇場が開場舞台
- 1925年3月東京放送局がラジオの仮放送を開始メディア
- 1925年秋早慶戦が19年ぶりに復活、東京六大学野球連盟が発足スポーツ
- 1926年9月尾上松之助が死去、葬列の沿道に20万人舞台
大正時代の芸能と流行の言葉
- ペラゴロ
- 浅草オペラの熱狂的なファン。語源は諸説あり定かでない
- プロマイド
- 俳優写真の商品名。マルベル堂が大正末期に案出した和製の呼び方
- 歌劇
- 1918年創刊の宝塚の機関誌。ファンの投稿が載る場になった
- 平民宰相
- 爵位を持たない衆議院議員として初の首相となった原敬を指す語
「ペラゴロ」は浅草オペラの熱心なファンの呼び名です。図には、スター写真の商品名や雑誌名、当時の政治家の呼び名も並べています。
次の1920年代編では、ジャズや流行歌、ラジオ放送の始まりを取り上げます。推し活クロニクル 1920年代へ。
参考資料
よくある質問
宝塚の初公演は、どんな場所で行われましたか?
1914年4月1日、宝塚新温泉の室内プールを改造したパラダイス劇場で行われました。演目は『ドンブラコ』『浮れ達磨』『胡蝶』の3本です。
宝塚の雑誌『歌劇』は、いつ生まれましたか?
創刊は1918年です。創成期の誌面にはファンの投稿も載り、公演を見た感想や要望を言葉で伝える場所になっていました。
浅草オペラは、どんな舞台でしたか?
大正時代の浅草で人気を集めた、歌やダンス、笑いを織り交ぜた大衆的な舞台です。ファンは「ペラゴロ」とも呼ばれ、ファンレターや贈り物で思いを伝える人もいました。
「カチューシャの唄」は、どう広がりましたか?
1914年、芸術座の舞台『復活』で松井須磨子が歌った曲です。レコードでも広がり、公演に先立つ講演会で録音が流されたことも、舞台への関心を高めました。
マルベル堂は、いつからスターの写真を売っていますか?
1921年に浅草で創業したときからです。スターの写真を「プロマイド」として販売し、ファンが集めて楽しむ品として広がっていきました。



