推し活クロニクル 明治時代|娘義太夫の声に夢中な「どうする連」。写真と絵はがきを集め、蓄音器で推しの声をもう一度
明治時代、女性が三味線に合わせて物語を語る「娘義太夫」には、語り手の声や表情を目当てに、芸を見せる小劇場である寄席へ通う熱心なファンが集まりました。国立国会図書館「魅了する推し 女義太夫」
「推しの声を、また聴きたい」。明治の初めから終わりにかけて、写真や音を録音・再生する道具も広まり、公演の場所以外でも推しを楽しむ方法が増えていきます。

① 娘義太夫の「誰を聴くか」で寄席を選ぶ
「義太夫」という名前だけでは、どんな舞台かわかりにくいかもしれません。中心にあるのは、物語を語る人の声と、三味線の音です。
語り手は、登場人物のせりふと物語の説明を一人で担当しました。声の強弱や調子を変えて、人物の感情や場面の変化を表現する芸でした。人形を伴わずに語りと三味線だけで演じる形は「素浄瑠璃」と呼ばれ、女性の語り手は江戸時代の末ごろから登場し、「女義太夫」「娘義太夫」と呼ばれました。大阪大学・女流義太夫の紹介
女性が語る義太夫は江戸時代後期から流行し、明治期に大きな人気を集めたとされています。早稲田大学演劇博物館「女流義太夫公演 in エンパク」
明治20年代、いまの年号でいう1887年から1896年ごろ、東京では女義太夫の人気が高まりました。とくに竹本綾之助は注目を集めます。綾之助が出演すると近くの寄席から客がいなくなったともいわれ、同じ日に二つの寄席で主任を務める「二軒バネ」も行いました。当時の芸の批評には、声の良さや、涙を流す観客の様子が記されています。国立国会図書館「魅了する推し 女義太夫」
人気を集めたのは一人だけではありません。1892年に刊行された女義太夫の評判記『桃鵆千種霞』には、115人の演者が載っています。客は同じ物語でも、誰がどのように語るかを聴き分けました。声の張り、登場人物の演じ分け、三味線との呼吸まで、演者ごとの違いが「この人を聴きたい」という気持ちにつながったのでしょう。
推しの声優が出演する作品を、その声を聴くために選ぶ。同じ演目でも誰が語るかに注目する娘義太夫の楽しみは、そんな選び方に近いでしょう。
② 「どうする連」が、追いかけ、声をかけ、贈り物をした
娘義太夫には、ファン同士の集まりや、演者に贈り物を届けた記録も残っています。
娘義太夫のファンは、客席から「どうする、どうする」と声をかけたことから「どうする連」と呼ばれました。「追駆連」という書き方も残り、演者を乗せた人力車を追いかける人もいたことが分かります。拍手に加えて、声と行動でも「応援している」と示しました。国立国会図書館・どうする連の解説
推しの演者ごとの集まりもありました。竹本京子を応援する「輝京連」は、人力車を囲んで送り、演者の後ろに掛ける幕を贈り、身の回りの手伝いまでしたと記録されています。今の有志によるフラワースタンドや応援広告と同じものではありませんが、仲間と力を合わせ、応援を目に見える形にした点は重なります。
ただし、熱心さはいつも歓迎されたわけではありません。履物につけた札で火鉢をたたく、落ちた髪飾りを拾おうとするなど、周囲の迷惑になる振る舞いも記録されました。1900年には新聞『萬朝報』が、どうする連の名前や住所、職業を載せて批判しています。残っているのはファン本人の声だけではなく、彼らを見る社会の厳しい視線でもあることに注意が必要です。
若いころに娘義太夫を聴きに通った作家・志賀直哉も、その記憶を文章に残しました。小説『蝕まれた友情』では、好きな演者のことを友人と長く話す場面が描かれます。同館・志賀直哉の作品紹介
③ 写真、手紙、雑誌で、会えない時間にも推しを追う
綾之助の人気は、客席の外にも広がりました。本人の写真は一日に数百枚売れたと伝えられています。国立国会図書館・竹本綾之助の人気
声を聴きに行けない日も、写真なら眺められます。江戸の人が役者絵を楽しんだように、明治のファンはカメラがとらえた本人の姿を眺めました。
同じ明治後期、町では絵はがきも広く使われるようになりました。大きなきっかけの一つが、1904年から1905年の日露戦争です。逓信省は1904年から1906年までに、5回、計13種類の戦役記念絵はがきを発行しました。発売日に長い列ができ、当日に売り切れたものもあります。郵政博物館「戦役記念絵葉書販売の実態に迫る」
ただし、記念絵はがきの流行と演者写真の販売を、同じファン商品とはみなせません。ここからわかるのは、印刷された絵や写真を選び、買い、手元に置く習慣が広がったことです。人々が集めた紙ものには、その時代の社会の関心も映りました。
文字もまた、公演のない時間をつなぎました。当時の手紙文例集には、娘義太夫へ送る手紙の例まで収められています。俳人の高浜虚子は義太夫雑誌を読み、演者の出演先を追ったことを書き残しました。直接会場へ行く、写真を見る、手紙を書く、雑誌で予定を知る。明治のファンは、複数の方法を組み合わせていました。国立国会図書館「魅了する推し 女義太夫」
④ 蓄音器とレコードが「もう一度聴く」を変える
1907年、日本コロムビアの前身となる会社が、国産蓄音器と円盤レコードの開発に着手しました。1908年に国産初の円盤レコードを発売し、翌1909年には国産初の蓄音器「ニッポノホン」を発売しています。日本コロムビア「会社沿革」
蓄音器は、レコードなどに刻まれた音を再生する道具です。円盤を回し、溝を針でなぞることで、録音された声や演奏を聴きます。
1909年には東京・京橋に録音所も設けられ、声や演奏を録音する設備が整えられました。日本コロムビアの沿革
レコードと蓄音器があれば、録音された声や演奏を、都合のよい時に繰り返し聴けます。生の公演でその日だけの語りを受け取ることと、録音された一席を何度も聴くことは、別の体験です。明治の終わりには、その二つを行き来できる土台が国内で整い始めました。
当時録音された女義太夫の一部は、現在、国立国会図書館が紹介する歴史的音源の中で聴けます。文字で人気を知るだけでなく、残された声から語りの調子を確かめられることも、録音メディアが残したものです。国立国会図書館「魅了する推し 女義太夫」
明治時代の推し活年表
- 1877年寄席取締規則で女性芸人の出演が公認舞台
- 1885年ごろ演劇改良運動が本格化舞台
- 1887年4月天覧劇、九代目市川團十郎が弁慶を演じる舞台
- 1887年ごろ竹本綾之助が上京、娘義太夫ブームが加速音楽
- 1889年11月歌舞伎座が開場、観客定員は1,700名余舞台
- 1891年川上音二郎が「川上書生芝居」を旗揚げ舞台
- 1895年1月博文館が児童雑誌『少年世界』を創刊メディア
- 1896〜97年神戸と大阪で活動写真が初めて公開メディア
- 1899年添田唖蝉坊の「ストライキ節」がヒット音楽
- 1900年8月『万朝報』が女義太夫ファンの実名を暴露メディア
- 1900年逓信省が私製絵葉書の使用を認可ビジネス
- 1903年第1回早慶戦、常陸山が第19代横綱に昇進スポーツ
- 1904〜05年日露戦争、戦役記念絵葉書が大流行ビジネス
- 1907年『演藝画報』が創刊、桃中軒雲右衛門が本郷座で満員札止め音楽
- 1909年6月両国に相撲の常設館「国技館」が開館スポーツ
- 1910年4月国産蓄音器「ニッポノホン」発売ビジネス
明治時代の芸能と流行の言葉
- どうする連
- 女義太夫の熱心なファン集団。堂摺連・追駆連とも書く
- 二軒バネ
- 人気演者が二つの寄席で同時にトリを務める興行の形
- 活歴
- 歴史考証を重んじた歌舞伎の新演出。九代目團十郎が担い手
- 書生芝居
- 壮士や書生が担った政治風刺の演劇。川上音二郎が代表格
- 演歌師
- 街頭で歌詞本を売り時事を歌った職業。添田唖蝉坊が代表格
「演歌師」が歌っていたのは、政治や世の中の出来事を扱う歌でした。現在「演歌」と呼ばれる音楽のジャンルとは意味が異なります。
次の大正時代には、舞台で歌われた一曲がレコードで広まり、宝塚には雑誌も生まれます。推し活クロニクル 大正時代へ。
参考資料
よくある質問
娘義太夫は、どんな芸能ですか?
女性が、三味線の伴奏に合わせて物語を語る芸能です。明治時代には竹本綾之助らが人気を集め、声や語りに惹かれた人々が寄席へ通いました。
「どうする連」という名前は、どこから来ましたか?
演目が盛り上がるところで「どうする、どうする」と声をかけたファンたちの呼び名です。推しの演者ごとに集まるグループもありました。
明治時代にも、演者の写真を集めていましたか?
人気の娘義太夫・竹本綾之助の写真が売られていました。同じ明治後期には絵はがきの収集も広がり、絵や写真を選んで手元に置く楽しみが身近になっていきます。
国産のレコードや蓄音器は、いつ登場しましたか?
日本コロムビアの沿革では、1908年に国産初の円盤レコード、1909年に国産初の蓄音器「ニッポノホン」が発売されています。明治の終わりには、録音した音を繰り返し楽しむ道具が国内で作られていました。



