推し活クロニクル 江戸中期|推しに会いに茶屋へ。笠森お仙と錦絵、相撲の番付
18世紀、江戸中期の谷中には、働く女性の姿を一目見ようと人が訪れる茶屋がありました。お茶を飲んで休む店「かぎ屋」の人気者、笠森お仙です。
評判を聞いて本人に会いに行き、その姿を描いた絵も楽しむ。推しに会える場所へ出かけ、会えない日はその姿を眺める。今にも通じる楽しみが、江戸の店や印刷物のまわりにありました。

① 推しに会いに茶屋へ。笠森お仙を目当てに集まる人々
お仙が働いていた「水茶屋」は、道端や寺社の境内でお茶を飲み、休憩する店です。いまのカフェのような場所、と考えると様子がつかめます。
かぎ屋にいたお仙の評判は広まり、その姿を一目見たい人が店を訪れました。絵師の鈴木春信も、お仙を何度も描いています。国立国会図書館「会える推し 茶屋娘」
誰かの話や絵を通して気になった人に、実際に会ってみたい。その気持ちは、今のイベント参加にも通じます。ただし、お仙が働いていたのは茶屋です。現代のアイドルのように、舞台への出演を仕事にしていたわけではありません。
お仙は手拭いや人形にもなったと、当時の文人・大田南畝が記しています。本人の姿を見に行くだけでなく、その人をかたどった品も作られていました。国立国会図書館による資料紹介
手拭いなら日々使えて、人形なら手元に置いて眺められる。今、推しの写真やアクリルスタンドを暮らしの中に置くように、会いに行く日以外にも、その人を思い浮かべる品がありました。
ところが1770年、お仙は店から姿を消します。結婚して、新しい暮らしに移ったためです。お仙を目当てに出かけても、もう茶屋では会えません。それでも絵の中には、茶屋で働いていたころのお仙の姿が残りました。同館「消えたお仙」
お仙と春信の名は、いまも谷中に残っています。笠森稲荷を合祀する大円寺には、1919年に「笠森阿仙の碑」と「錦絵開祖鈴木春信」の碑が建てられました。江戸当時の記録ではなく、後の時代に二人をしのんで建てられたものです。台東区公式観光情報「笠森お仙・鈴木春信の碑」
② 推しの姿を色鮮やかに。鈴木春信と錦絵
そのお仙を描いた春信は、絵の楽しみ方が大きく変わる時期に活躍した人です。
1765年、絵の中に暦の情報を入れた「絵暦」を交換する催しが、色をいくつも重ねて刷る浮世絵の発展につながりました。こうして広がった色鮮やかな木版画が、錦絵です。東京国立博物館・鈴木春信の解説 千葉市美術館も、この年の絵暦交換会の流行を錦絵誕生のきっかけとし、春信を多色摺りの版画で浮世絵に革命を起こした絵師として紹介しています。千葉市美術館「江戸美術の革命 −春信の時代」
絵暦は、暦の情報を絵の中に隠した作品です。千葉市美術館が所蔵する春信の「見立三夕 西行」は1765年の絵暦で、その年の月の大小を示す文字が、水辺の葦の葉や女性の帯の柄に紛れ込ませてあります。暦を読み解く楽しみと、絵を眺める楽しみが、一枚の中に重なっていました。千葉市美術館・所蔵作品「見立三夕 西行」
色ごとに版を重ねて刷ることで、着物の色や柄、背景まで表現できる。人気者の姿を眺めるときにも、色が加わると楽しめるところが増えます。
推しの写真を選ぶときも、顔が写っていればどれでもよい、とは限りません。その衣装が好き。この角度がいい。この表情を残しておきたい。錦絵を眺めるときにも、そういう選ぶ楽しみを重ねられます。
春信の作品には、和歌や物語を題材にした絵と、当時の人気者を描いた絵があります。古典の登場人物と、当時の町の人気者の両方が題材になっていました。東京国立博物館の作品リスト
③ 舞台の推しを手元にも。勝川春章の役者絵
舞台で活躍する役者も、浮世絵の大切な題材でした。役者の姿を描く「役者絵」を得意としたのが、勝川春章です。東京国立博物館は、5枚続きの役者絵を紹介しています。複数の紙を並べて、一つの大きな画面を楽しめる作品です。東京国立博物館・役者絵の展示解説
春章らの勝川派は、役者一人ひとりの顔立ちを描き分け、絵を見るだけで誰かがわかる「似顔」の役者絵を完成させたとされています。細判を何枚もつなげる「続き絵」では舞台全体を描けた一方、観客は贔屓の役者が描かれた一枚だけを選んで買うこともできました。立命館大学アート・リサーチセンター「勝川派の役者絵」
推し一人の姿を眺めたい日もあれば、共演する人たちとの並びを楽しみたい日もあります。複数の役者を描く絵は、今なら舞台の集合写真を見る感覚に近いでしょう。ただし写真のような記録とは違い、絵師が描いた姿を楽しむものだった点も、役者絵の面白さです。
劇場から帰っても、役者絵を開けば推しの衣装やポーズを眺められる。公演の日だけで終わらない楽しみを、絵が作っていました。
④ 番付で、推しの力士の名前と地位を確かめる
江戸の熱気は、芝居や茶屋だけに集まったわけではありません。相撲にも、推しの力士を持つ観客がいました。
18世紀後半には、谷風や小野川などの名力士が活躍し、江戸の相撲人気が高まります。寺社の境内には興行のための大きな仮小屋が建ち、観客はそこで取り組みを楽しみました。東京都立図書館「勧進大相撲の誕生」 日本相撲協会も、江戸中期に相撲が定期的に興行されるようになり、谷風・小野川・雷電の活躍で人気が急速に高まったと説明しています。相撲は、歌舞伎と並ぶ庶民の娯楽になっていきました。日本相撲協会「相撲の歴史」
出場する力士たちを知る手がかりが「番付」です。名前と地位を並べたもので、江戸時代には木版で刷って配られるようになりました。東京都立図書館・相撲番付の解説
推しの力士の名前を探し、どの地位にいるかを確かめる。今のスポーツで応援する選手の情報を追うような楽しみです。番付は、その場の人気投票ではなく、力士の地位を示すもの。芝居の役者評判記とは、並べる基準が違いました。
江戸中期には、茶屋で人気者の姿を見たり、役者絵を眺めたり、番付で力士の地位を確かめたりと、今のイベントやグッズ、選手情報に通じる楽しみを、店や印刷物が支えていました。
江戸中期の推し活年表
茶屋で推しに会い、錦絵で姿を持ち帰り、番付で活躍を追う。人々の楽しみを支えた出来事が、18世紀に重なります。
- 1703年竹本座が『曽根崎心中』を初演、豊竹座が創設芝居
- 1714年江島生島事件、公認の芝居小屋が江戸三座に芝居
- 1721年二代目市川團十郎の給金が年千両になるアイドル
- 1734年人形浄瑠璃で「三人遣い」が考案される芝居
- 1747年初代常磐津文字太夫が常磐津節を創始音楽
- 1748年『仮名手本忠臣蔵』が竹本座で初演される芝居
- 1757年縦一枚形式の相撲番付が刷られ始める相撲
- 1764年笠森お仙が谷中の水茶屋「鍵屋」に出るアイドル
- 1765年多色摺の錦絵が生まれるメディア
- 1770年勝川春章らが『絵本舞台扇』を刊行メディア
- 1772年竹本座が閉座、人形浄瑠璃が退潮へ芝居
- 1773年蔦屋重三郎が吉原大門口で耕書堂を開くビジネス
- 1782年小野川喜三郎が谷風の63連勝を止める相撲
- 1789年谷風梶之助と小野川が横綱免許を受ける相撲
- 1794年東洲斎写楽が大判28枚の役者絵で登場メディア
- 1798年江戸・下谷神社の境内で最初の寄席が開かれる芸能
江戸中期の芸能と流行の言葉
好きな役者を支える「贔屓」や、仲間で集まる「連中」。推しと、同じものを好きな人たちとの関わりを表す言葉です。
- 贔屓
- 気に入った役者や芸人を経済的・精神的に支持する行為と、その立場
- 連中
- 特定の役者を応援する仲間の集まり。現代のファンクラブに近い機能を持った
- 位付
- 役者評判記で芸に等級をつけた評点システム。毎年更新された
- 見立番付
- 相撲番付の形式を借りて、あらゆる事物を東西に分けて格付けした一枚摺り
「位付」は役者の芸を評価した等級、「見立番付」は相撲の番付をまねてさまざまなものを並べた印刷物です。
次の推し活クロニクル 江戸後期では、役者にちなんだ衣服の柄や、楽屋を描く絵を取り上げます。
参考資料
よくある質問
笠森お仙は、どんな人気者でしたか?
江戸の谷中にあった茶屋「かぎ屋」で働いた女性です。評判を聞いて姿を見に来る人々が集まり、鈴木春信らが描いた錦絵にも登場しました。
錦絵は、いまの推し活でいうと何に近いですか?
色を重ねて刷った木版画です。役者や町の人気者の姿を手元に置く楽しみは、写真やポスターを選び、眺める感覚に重なります。
錦絵が広がるきっかけは何でしたか?
1765年の絵暦交換が、多色刷りの浮世絵である錦絵の発展につながりました。その変化の中心にいたのが、絵師の鈴木春信です。
江戸の人たちも、相撲の番付を見ていたのですか?
江戸時代には木版で刷った番付が配られました。18世紀後半には谷風や小野川などの名力士が活躍し、相撲人気が高まります。好きな力士の位置を確かめる楽しみがありました。



