推し活クロニクル 鎌倉・室町時代|義満が推した観阿弥・世阿弥。舞台と祭りを支えた人々
付き添いで行った舞台で、初めて見た俳優に心をつかまれる。帰るころには、次の公演も見たくなっている。推しとの出会いは、たった一度の上演から始まることがあります。
舞台に惹かれた将軍と、その舞台を作った親子。その出会いを、客席にいるような気持ちでたどってみましょう。

① 義満が推した観阿弥・世阿弥。その舞台との出会い
14世紀の室町時代、京都・今熊野で、観阿弥の一座が上演を行いました。一座とは、一緒に舞台を作る芸能者の集団のこと。その上演を見た将軍・足利義満が、観阿弥と息子の世阿弥の芸を高く評価し、支援したことが、活動の大きな足がかりになりました。日本芸術文化振興会「観阿弥」
父の観阿弥と、息子の世阿弥は、能を発展させた人物です。能は、歌や舞、演技で物語を表す芸能。今の能には格式高い印象があるかもしれませんが、当時、能につながる芸能は寺や神社の行事でも演じられていました。日本芸術文化振興会「能楽の歴史」
観阿弥は、ほかの芸から新しい面白さを取り入れた人でもあります。踊りの芸である曲舞を学び、そのリズムを自分たちの芸に組み込みました。今なら、歌手が別のジャンルのリズムを取り入れ、聴き慣れた音楽に新鮮さを加えるような工夫として考えられます。観阿弥の芸の解説 能楽協会の解説でも、観阿弥が義満の支援を得て曲舞の節を取り入れ、音楽面を改革したこと、まだ12歳だった世阿弥が将軍の後援を受けたことが紹介されています。能楽協会「能楽の歴史」
義満の支援は、「あの舞台がよかった」という評価が、演者の活動を後押しする力になった例です。 応援の始まりは今のファンにも通じます。ただし、武家政権の頂点にいた将軍は、普通の観客よりはるかに大きな影響力を持っていました。現在のファンクラブ入会やチケット購入と同じ仕組みではありません。
② 推しの新しい役に「こんな一面も!」。世阿弥が考えた「花」
好きな俳優が、次の作品ではまったく違う役を演じている。いつもの表情を楽しみにしていたのに、新しい演技にも驚かされる。長く応援していても、好きになる理由がまた増えることがあります。
世阿弥のいう「花」を考える入口は、この「見慣れた人なのに、新鮮に感じる」という体験です。
世阿弥は、能の演じ方や稽古について書いた『花伝』で、観客を惹きつける芸を考えました。「花」は、観客が演技に感じる珍しさや魅力に関わる言葉です。見た目の華やかさだけを指すわけではありません。日本芸術文化振興会「花伝」
『花伝』では、さまざまな役を演じこなし、幅広い観客を納得させることも重んじられています。今の例に置き換えるなら、いつもの得意な役だけでなく、違う役柄でも客席を惹きつけられる演者です。
「前によかったから、今回も同じでいい」とは限らない。見る人に、また魅力を感じてもらうにはどうするか。 そう考えると、世阿弥の芸の話は、次の出演作を楽しみにする私たちにも身近になります。
③ 会場で一緒に声を出すように、自分も加わる「踊り念仏」
ライブで周りの人と一緒に手を動かしたり、声を出したりする。見ているだけのときとは、自分の会場への関わり方が変わります。目の前で起きていることに、自分も加わっているからです。
観客が演者を見守る能の舞台から、時代を少し戻した鎌倉時代へ。集まった人自身が声を出し、踊る場には、踊り念仏がありました。
踊り念仏は、仏の名を唱えながら踊る、仏教の信仰に基づく行いです。僧の一遍がこれを各地に広め、人々は目の前の踊りを眺めるだけでなく、自分たちも念仏を唱え、体を動かして祈りました。日本芸術文化振興会「念仏踊」
1279年には、いまの長野県佐久市にあたる土地で、一遍による踊り念仏が始まったと伝えられます。八十二文化財団「踊り念仏」 佐久市では、この踊り念仏が「跡部の踊り念仏」として今も受け継がれ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。佐久市「跡部の踊り念仏」
ライブにたとえられるのは、その場の人が声や動きを合わせる部分です。踊り念仏の目的は、仏への祈りにありました。 一遍をアイドル、念仏を応援の掛け声と考えると、行いの意味が変わってしまいます。
それでも、「その場にいる人自身が加わる」と考えれば、文字だけではわかりにくい踊り念仏の姿を思い浮かべやすくなります。
④ 「あの催しを、もう一度」。町の人々が取り戻した祇園祭
毎年楽しみにしていた地元の祭りが開かれなくなったら、寂しく感じる人もいるでしょう。再開すると聞けばうれしいし、準備を手伝えるなら関わりたい。大切な催しを支えるのは、こうした参加者でもあります。
京都の祇園祭には、戦乱で途絶えた山鉾の巡行を、町の人々が復活させた歴史があります。山鉾は、飾りを施した大きな造り物。巡行は、それらが町を進む行列のことです。
祇園祭は、疫病を鎮める祈りをもつ祭りです。室町時代、町の人々が支える山鉾の巡行が発展しましたが、京都を巻き込んだ戦乱、応仁の乱をきっかけに途絶えました。そして1500年、町の人々の力で巡行が復活します。京都市「祇園祭 祭礼篇」 京都文化博物館の解説も、応仁の乱で山鉾巡行が中断し、乱の始まりから33年後の1500年に復活したと記しています。室町時代には、歴代の足利将軍も桟敷から巡行を見物していました。京都文化博物館「祇園祭―足利将軍が見た山鉾巡行―」
今なら、中断した地元の祭りや大切なイベントを、地域の人たちが協力して再開する姿が近いでしょう。 「また見たい」と待つだけでなく、催しを支える側に人がいることが、再開につながります。
現在の祇園祭でも、山鉾を出す町の人々や氏子の組織が行事を支え、山鉾を飾る懸装品には織物や彫刻、金工などの伝統の技が集まっています。京都市「祇園祭を支える町と暮らし」からは、華やかな行列の背後にある、町の人々の関わりが見えてきます。
今日の役割分担が1500年にもそのままあったという意味ではありません。今の祭りを見ても、催しを続けるには、表に出る人以外の働きが必要だとわかります。
鎌倉・室町時代の推し活年表
鎌倉時代の踊り念仏、室町時代の能の発展、戦乱後の祇園祭の再興。本文で紹介した出来事を年代順に並べると、人が集まる場の移り変わりが見えてきます。
- 1279年一遍が信濃で踊り念仏を始める芸能
- 1282年片瀬の浜の踊り念仏に群衆が押し寄せる芸能
- 1299年『一遍聖絵』が作られる(全12巻48段・国宝)メディア
- 1324年後醍醐天皇の近臣が闘茶を興行するビジネス
- 1349年四条河原の勧進田楽で桟敷が崩落芸能
- 1354年田楽の名手・一忠が没する芸能
- 1356年『菟玖波集』成立(2190句・作者450名)メディア
- 1366年佐々木道誉が大原野で百服の闘茶を催すビジネス
- 1374年今熊野猿楽。観阿弥・世阿弥が足利義満の後援を得る芸能
- 1378年祇園会で世阿弥が義満の桟敷に近侍する芸能
- 1400年頃世阿弥が『風姿花伝』を書き継ぐメディア
- 1433年糺河原で勧進猿楽が催されるビジネス
- 1434年世阿弥が佐渡へ配流される芸能
- 1464年糺河原勧進猿楽、3日間で能23番・狂言20番ビジネス
- 1467年応仁の乱。猿楽座が幕府・寺社の後ろ盾を失う芸能
- 1500年中断していた祇園祭の山鉾巡行が復興する芸能
鎌倉・室町時代の芸能と流行の言葉
観客を惹きつける「花」、派手な装いや振る舞いを表す「婆娑羅」。舞台や人々の暮らしを知る手がかりになる言葉です。
- 桟敷
- 勧進興行などのために組まれた観覧席。身分に応じて位置が割り当てられた
- 勧進
- 寺社の建立・修繕のための寄付集め。芸能と結びついて勧進猿楽を生んだ
- 婆娑羅
- 既存の権威や慣習にとらわれない振る舞い。佐々木道誉らの遊興を象徴する語
- 花
- 観客を感動させる芸の力を指す、世阿弥「風姿花伝」の中心概念
図の「花」は、②で紹介した世阿弥の芸の考え方です。「婆娑羅」は、派手な服装や振る舞いを好み、従来の秩序にとらわれない風潮を表します。
一度見た舞台で惹かれる。新しい演技にまた心をつかまれる。集まりに自分も加わる。大切な催しを続けるために力を貸す。鎌倉・室町時代の芸能や祭りにも、見る人と支える人の姿がありました。
次の推し活クロニクル 安土桃山・江戸前期では、かぶき踊りと歌舞伎へ。役者の評判を読んだり、好きな役者を見に行ったりする楽しみをたどります。
参考資料
よくある質問
足利義満の応援を、今の推し活にたとえると?
一度の上演で演者に惹かれ、活動を支えるようになる流れに重ねられます。ただし、将軍による支援には強い政治的な影響力があり、現在のファンによるチケット購入などと同じ仕組みではありません。
世阿弥の「花」は、どう考えるとわかりやすいですか?
推しの新しい役を見て「こんな魅力もあった」と感じる体験が入口になります。「花」は観客が演技に感じる珍しさや魅力に関わる考え方で、見た目の華やかさだけではありません。
踊り念仏は、昔のライブのようなものですか?
集まった人が声や動きを合わせる参加の形は、ライブにたとえられます。ただし踊り念仏は仏への祈りで、演者への応援が目的ではありません。鎌倉時代には一遍が各地に広めました。
祇園祭の復活は、今でいうとどんな場面ですか?
中断した地元の祭りや大切なイベントを、地域の人が力を合わせて再開する姿に重ねられます。祇園祭では、応仁の乱をきっかけに途絶えた山鉾の巡行が、1500年に町の人々の力で復活しました。



