「大相撲」の聖地巡礼|両国国技館・相撲博物館と回向院、横綱の記念碑へ【推し活×聖地巡礼】
東京・両国の国技館では、緑色の大屋根の下に土俵と四方の客席が広がります。幕内力士の化粧廻し、呼出が響かせる声、行司の軍配。その舞台から歩いて行ける回向院には、江戸の相撲興行を伝える力塚があり、亀沢の野見宿禰神社には歴代横綱の名を刻んだ碑が立っています。
国技館1階の相撲博物館では、2026年秋に「生誕100年 千代の山とその弟子」を開催。北斎の波を刺繍した化粧廻しをはじめ、横綱から弟子へ受け継がれた品々を紹介しています。両国駅の周りには、原寸大の土俵を据えた旧駅舎、最初の国技館の跡、協会の専属写真館の資料館も。隅田川の対岸の蔵前と南の深川には、江戸の勧進相撲が開かれた神社が残っています。

両国・蔵前・深川で訪ねたい相撲ゆかりの場所
1両国国技館|緑の大屋根と四方から土俵を囲む客席

現在の両国国技館は、1985年1月に開館しました。東京で行われる大相撲の一月場所・五月場所・九月場所の会場です。JR総武線両国駅の西口から徒歩2分。所在地の「横網」は「よこあみ」と読みます。
建物の目印は、四隅を斜めに落とした緑色の大屋根です。この形を「隅切り方形」といい、軒が低く長く張り出しています。東京都の建築紹介では、屋根の雨を地下にため、雑用水に使う設備も取り上げられています。和風の外観の中に、大人数を迎える近代的な会場の仕組みが収まっています。
客席に入ると、土俵の上にもう一つの屋根が浮かんでいます。これは天井から支える「吊り屋根」。かつて土俵の四隅にあった柱は撤去され、四色の房が下がっています。テレビ中継で見慣れた土俵の周りには、東・西・正面・向正面の客席があり、力士が出入りする二本の花道も通っています。
一階のマス席は、枠で区切られた座布団の席。二階は椅子席が中心です。公式の「国技館・座席ビュー」には、客席や通路のストリートビューがあります。一階と二階を切り替え、土俵から上の客席まで、館内を見渡せます。
次の東京本場所は、2027年1月10日から24日までの一月場所です。入場券は日本相撲協会の「入場券情報」から購入できます。館内1階には、本場所のない平日にも入館できる相撲博物館が設けられています。
- 場所
- 東京都墨田区横網1-3-28
- 競技との関係
- 1985年1月開館の東京本場所会場
- 最寄り駅
- JR総武線両国駅西口から徒歩2分
- 見どころ
- 隅切り方形の緑の大屋根、吊り屋根と四色の房、一階マス席と二階椅子席
出典:東京都・国技館の建物と土俵 、国技館へのアクセス 、国技館・座席ビュー 、国技館・2027年1月の予定
2相撲博物館|横綱の化粧廻しと江戸の相撲資料

相撲博物館は、国技館の1階にある150平方メートルの展示室です。初代館長・酒井忠正の収集品をもとに、1954年9月、蔵前国技館とともに開館しました。散り散りになりかねない相撲資料を集め、保存するために設けられた施設で、1985年に現在の国技館へ移っています。
収蔵しているのは、化粧廻し、番付、錦絵など。常設展示はなく、年3回の企画展で収蔵品を公開しています。2026年は「芸術と相撲」「江戸相撲の風景」に続き、9月13日から12月17日まで「生誕100年 千代の山とその弟子」を開催しています。
この秋の展示品には、千代の山の化粧廻しや横綱推挙状、北の富士や千代の富士の化粧廻しがあります。取組の映像で知られる力士たちの衣装を、刺繍や図柄の細部まで見られる機会です。11月11日には、14時から約30分の展示解説も予定されています。予約は不要です。
通常期間は入館無料で、10時から16時30分まで、最終入館は16時。原則として土曜・日曜・祝日と年末年始が休館ですが、一部の開館日や展示替え休館があります。東京本場所中は12時30分から16時までで、その日の大相撲の観覧券が必要です。博物館の通常入館には、アリーナの見学は含まれません。
展示室には、野見宿禰神社の御守や御札を扱う授与所もあります。神社の参拝先は亀沢、授与所は国技館内です。
- 場所
- 東京都墨田区横網1-3-28、両国国技館1階
- 競技との関係
- 日本相撲協会が運営する相撲資料の展示施設
- 開館時間
- 通常期間は10時〜16時30分・最終入館16時、東京本場所中は12時30分〜16時
- 観覧料
- 通常期間は無料、東京本場所中は当日の大相撲観覧券が必要
3回向院|勧進相撲が開かれた境内の力塚

両国駅の南側にある回向院は、1657年の明暦の大火で亡くなった人々を弔うために開かれた寺院です。相撲との縁を伝えるのが、境内に立つ力塚。1936年、相撲協会が歴代の相撲年寄を慰霊するために建立し、新弟子が力を授かるよう祈る碑にもなっています。
江戸時代の相撲は、寺社の修築などの資金を集める「勧進相撲」として興行されました。回向院で初めて開かれたのは1768年。1833年からは春秋二回の興行の定場所となり、1909年に旧両国国技館が完成するまで、76年間にわたって相撲の人出を集めました。
その賑わいを描いた多色刷りの木版画・錦絵が、1853年に歌川国郷が手掛けた『両国大相撲繁栄之図』です。山門の内外を埋める観客、相撲茶屋、贔屓から贈られた幟や酒樽が描かれています。相撲博物館の2026年の企画展「江戸相撲の風景」で紹介された一枚で、公式サイトにも掲載されています。
静かな境内に残る力塚と、この絵の群衆の対照は鮮やかです。現在の国技館があるのは駅の北側ですが、江戸の人々が相撲見物に集まったのは南側の回向院でした。
- 場所
- 東京都墨田区両国2-8-10
- 競技との関係
- 1833年から76年間続いた江戸勧進相撲の定場所
- 最寄り駅
- JR総武線両国駅西口から徒歩3分
- 見どころ
- 1936年に相撲協会が建立した歴代相撲年寄の慰霊碑・力塚
出典:回向院・名所案内 、墨田区観光協会・相撲ゆかりの場所 、相撲博物館「江戸相撲の風景」
4野見宿禰神社|横綱の名が並ぶ碑と梅鉢の社紋

亀沢の野見宿禰神社は、1885年、高砂浦五郎ら相撲関係者によって、津軽藩の上屋敷跡に創建されました。関東大震災と東京大空襲で焼失し、1953年に再建。その際、日本相撲協会が歴代横綱記念碑を建てました。
祀られている野見宿禰は、『日本書紀』に登場する人物です。當麻蹶速との力比べに勝ったという説話から、相撲の始祖、勝利の神として信仰されてきました。境内の碑には、土俵を担ってきた横綱の四股名が連なります。
社紋は梅鉢。これは、学問の神様として知られる菅原道真との縁によるものです。神社の由緒では、野見宿禰を祖とする土師氏から菅原氏が生まれ、道真へ続く系譜を説明しています。相撲の神社に、天満宮で親しまれる梅の意匠があるのには、このつながりがあります。
東京の本場所前には、相撲協会の理事長や審判部長らが出席する例祭が行われます。新横綱が奉納土俵入りをする神社としても知られています。日常の参拝では、境内にある歴代横綱記念碑と社殿を静かに拝観できます。
- 場所
- 東京都墨田区亀沢2-8-10
- 競技との関係
- 1885年に高砂浦五郎ら相撲関係者が創建した相撲の始祖を祀る神社
- 最寄り駅
- 都営大江戸線両国駅A3出口から徒歩6分
- 見どころ
- 1953年再建時に日本相撲協会が建てた歴代横綱記念碑と梅鉢の社紋
5-両国- 江戸NOREN|旧駅舎の吹抜けに据えた原寸大の土俵

JR両国駅の西口に直結する「-両国- 江戸NOREN」は、駅の旧駅舎を改装した飲食施設です。江戸の町屋を思わせる吹抜けの中央に、本場所と同じ大きさの土俵が据えられています。土俵の奥には火の見櫓が立ち、高い梁から大きな提灯が下がります。
土俵を囲むのは、すし、そば、もんじゃ焼きなどの店。元大関・霧島の「ちゃんこ霧島」もここに店を出しています。館内の両国観光案内所では、墨田区のパンフレットや土産物を扱っています。
開館は10時から23時まで。1月1日・2日と施設点検日は休館です。2026年度は、館内でガイドツアーを利用できるのは、館内の店で飲食する客に限られています。
- 場所
- 東京都墨田区横網1-3-20
- 競技との関係
- 館内中央に本場所と同じ大きさの土俵を設置
- 最寄り駅
- JR総武線両国駅西口直結
- 開館時間
- 10時〜23時(店舗により異なる)、1月1日・2日と施設点検日は休館
出典:-両国- 江戸NOREN 、墨田区・両国まちあるき瓦版 Vol.1 、墨田区・両国まちあるき瓦版 Vol.4
6国技館通り|土俵入りの力士像と横綱の手形

国技館の西側から、JR総武線の高架をくぐって京葉道路へ延びる道が国技館通りです。歩道には、土俵入りの姿をかたどった力士の銅像が台座の上に立ち、歴代横綱の手形も並んでいます。
両国駅の西口を出て南へ歩くと、緑青をまとった小さな銅像が、御影石の台座の上に現れます。土俵入りの腕の形を真似て記念写真を撮る人も多い場所です。
毎年春の「両国にぎわい祭り」では、この通りも会場になります。2025年4月の第19回では、通りにステージが設けられ、ちゃんこを食べ比べられる店も並びました。
- 場所
- 東京都墨田区横網1丁目〜両国2丁目、国技館通りの歩道
- 競技との関係
- 土俵入りの姿の力士像と歴代横綱の手形が並ぶ通り
- 最寄り駅
- JR総武線両国駅西口からすぐ
- 見どころ
- 御影石の台座に立つ力士の銅像
出典:GO TOKYO・相撲の街 両国を歩く 、墨田区・両国まちあるき瓦版 Vol.1
7旧両国国技館跡|中庭の敷石に描かれた土俵の円

回向院のすぐ隣、複合施設「両国シティコア」の中庭には、縞模様の敷石の中に大きな円が描かれています。1909年に完成した最初の国技館で、土俵があった位置を示す印です。
最初の国技館は、大相撲として初めての屋内の常設会場でした。完成からわずか8年後に火災で焼け、再建後も震災や戦災に見舞われます。1944年1月の春場所を最後に陸軍が使い、戦後はGHQに接収されました。
1946年、「メモリアルホール」として改装された館で、大相撲秋場所と第35代横綱・双葉山の引退披露が行われました。これがこの建物で最後の相撲興行です。建物はその後、日大講堂などとして使われ、1982年に解体されました。
跡地に両国シティコアができたのは1992年。円の近くには墨田区教育委員会の説明板が立ち、鉄骨の丸屋根を載せた当時の国技館の写真が掲げられています。
- 場所
- 東京都墨田区両国2-10-14、両国シティコア中庭
- 競技との関係
- 1909年完成の最初の国技館で、土俵があった位置
- 最寄り駅
- JR総武線両国駅西口から徒歩約3分
- 見どころ
- 敷石に描かれた土俵の円と、当時の写真を載せた説明板
出典:墨田区・両国まちあるき瓦版 Vol.5「国技館などの変遷」 、日本相撲協会・双葉山
8相撲写真資料館|協会の専属を務めた写真館の記録

両国3丁目の路地にある工藤写真館は、1929年から60年以上にわたり、日本相撲協会の専属を務めた写真館です。その一角が、相撲写真資料館として公開されています。
所蔵しているのは、協会の公式行事、歴代横綱、優勝力士、幕内の全力士、国技館の移り変わりを写した写真です。展示用に選んだ約500枚の中から、場所ごとに70枚ほどを入れ替えて並べています。
2026年5月の秋田魁新報の取材記事では、横綱に昇進した双葉山をスタジオで撮影した戦前の一枚が、所蔵品として紹介されました。開館日は毎週火曜。東京で本場所が開かれる1月・5月・9月は、場所中毎日開いています。
- 場所
- 東京都墨田区両国3-13-2、工藤写真館
- 競技との関係
- 1929年から60年以上、日本相撲協会の専属を務めた写真館
- 開館日
- 毎週火曜、東京本場所の期間中は毎日
- 見どころ
- 場所ごとに入れ替える約70枚の相撲写真
出典:墨田区観光協会・相撲の街を堪能コース 、墨田区・両国まちあるき瓦版 Vol.2 、秋田魁新報・相撲の街、東京・両国
9蔵前神社|谷風の連勝が止まった勧進大相撲の地

隅田川の対岸、台東区蔵前の蔵前神社は、1693年に5代将軍・徳川綱吉が京都の石清水八幡宮を勧請して始まった神社です。江戸時代には「蔵前八幡」と呼ばれていました。
神社の由緒では、ここを勧進大相撲の発祥の地としています。1833年に回向院が定場所となるまで、回向院、深川八幡とともに興行が開かれた三大拠点の一つでした。1782年2月場所では、63連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れ、江戸中が大騒ぎになったと伝わります。二人は1789年11月、そろって横綱になっています。
相撲博物館が所蔵する1757年10月の江戸相撲番付も、この蔵前八幡宮での興行のものです。縦型の番付としては現存最古とされます。境内には、落語「元犬」にちなむ元犬像もあります。
- 場所
- 東京都台東区蔵前3-14-11
- 競技との関係
- 江戸の勧進大相撲の三大拠点の一つ
- 最寄り駅
- 都営大江戸線蔵前駅A6出口・都営浅草線蔵前駅A4出口から徒歩2分
- 見どころ
- 谷風と小野川の一番が伝わる境内、元犬像
出典:蔵前神社・由緒沿革 、蔵前神社・奉納力持と勧進大相撲 、蔵前神社・境内 、相撲博物館「大相撲」の幕開け 、日本相撲協会・谷風 、日本相撲協会・小野川
10富岡八幡宮|勧進相撲発祥の地に立つ横綱力士碑

深川の富岡八幡宮は、江戸勧進相撲の発祥の地として知られます。1684年、幕府が春と秋の2場所の勧進相撲を許した、その興行地がこの境内でした。以後約100年にわたって本場所が開かれ、定期の興行や番付の制度が整えられたといいます。
境内の横綱力士碑は、1900年、第12代横綱・陣幕久五郎の発起で建てられました。高さ3.5メートル、幅3メートル、重さ20トンの石碑に、初代から歴代横綱の四股名が刻まれています。新しい横綱が誕生すると、相撲協会の立ち会いで名を刻む刻名式が行われ、新横綱の土俵入りが奉納されます。
碑の両側には、建立に賛同した伊藤博文、山県有朋、大隈重信らの名も刻まれています。境内には大関力士碑や、大きな力士の手形と足形を写した碑もあります。御本殿は2026年3月から2027年6月(予定)まで大改修工事中で、仮囲いに覆われています。
- 場所
- 東京都江東区富岡1-20-3
- 競技との関係
- 1684年に勧進相撲が許された江戸勧進相撲の発祥の地
- 最寄り駅
- 東京メトロ東西線門前仲町駅から徒歩3分、都営大江戸線門前仲町駅から徒歩6分
- 見どころ
- 横綱力士碑、大関力士碑、力士の手形足形碑
- 工事
- 御本殿は2027年6月(予定)まで改修工事中
出典:富岡八幡宮・相撲と富岡八幡宮 、富岡八幡宮・御本殿大改修工事の仮囲い 、富岡八幡宮・交通のご案内 、日本相撲協会・陣幕
本場所の土俵で繰り広げられる儀式と勝負
国技館の観戦では、取組に加えて土俵入りも大きな見どころです。化粧廻しを着けた力士の列が花道から進み、横綱は露払いと太刀持ちを従えて土俵へ上がります。土俵の上で繰り返される所作と、力士が身にまとう衣装や道具には、それぞれ江戸期から受け継がれてきた由来があります。
化粧廻しを披露する土俵入り
日本相撲協会の解説によると、化粧廻しの始まりは、廻しの端を前へ垂らし、模様を付けたことでした。力士が職業として相撲を取るようになると、金糸や銀糸を使って華やかさを競い、その装いを披露するために土俵入りが生まれたといいます。初めは、土俵入りと取組で同じ廻しを使っていました。
現在、取組で締める廻しと、前に大きな飾りを垂らす化粧廻しは別のものです。横綱の土俵入りでは、本人と太刀持ち、露払いの化粧廻しを一組にした「三つ揃い」が使われます。横綱だけの肖像では見切れてしまう左右の二枚も、土俵入りの場面では一緒に現れます。
この三枚を一組で見られるのが、相撲博物館の秋の展示です。千代の山の品では、中央の横綱用に葛飾北斎の波、左右の二枚に俵屋宗達の風神と雷神が配されています。刺繍を手がけたのは関谷登美治。さらにこの一組は、佐田の山、北の富士、千代の富士が横綱へ昇進した際の土俵入りにも使われました。一人の力士のための装いが、後の横綱たちの門出にも立ち会ったのです。
出典:日本相撲協会・化粧まわしと土俵入り 、相撲博物館・千代の山の化粧廻し
横綱土俵入りの雲龍型と不知火型
横綱が腰を落とした姿勢からゆっくり立ち上がる「せり上がり」。その腕の形には、二つの型があります。雲龍型は右手を横へ広げ、左手を脇腹に添えます。不知火型は左右の腕を広げます。背中で結んだ綱にも違いがあり、雲龍型は輪が一つ、不知火型は二つです。
相撲博物館が2024年に開いた「雲龍型と不知火型」展では、北の湖が使った雲龍型の綱と、隆の里が使った不知火型の綱を紹介しました。綱は、化粧廻しの上から腰に締める白い縄。正面からは腕の形、背面からは輪の数に、二つの型の特徴が表れます。
同展で取り上げられた『増補横綱図式』は1792年刊。谷風と小野川が初めて土俵入りを披露した際の姿を伝えています。江戸の図に残る横綱の装いと、現代の力士が締める綱を、一つの展覧会で並べた企画でした。
塩、力水、塵手水――立ち合いの前に行うこと
力士が塩をまき、向き合って腰を落とし、立ち上がって再び離れる。取組前には、勝負とは別の儀式があります。口をすすぐ力水は身を清めるためのもの。土俵へまく塩も、場を清め、けがなく相撲を取れるようにという願いを込めています。
腰を低くしてつま先で体を支える姿勢が「蹲踞」です。手を打ち、左右へ腕を開いて手のひらを下に返す一連の動作は「塵手水」。由来には諸説あり、協会の解説では、草に付いた朝露で手を清めたことから生まれたという説を紹介しています。
仕切りでは、両者が土俵中央で向き合い、立ち合いへ向けて呼吸を合わせます。1928年には仕切時間と仕切線が設けられました。土俵上の白い二本線は、近代の相撲の運営の中で加わった仕組みです。
出典:日本相撲協会・塵手水の由来 、日本相撲協会・大相撲紹介冊子 、協会のあゆみ
押し出しと寄り切り、腕を掛ける上手投げと下手投げ
土俵外へ相手を出す勝ち方にも、異なる技があります。押し出しは、相手の胸や脇の下に手を当てて押すもの。親指とほかの指を開く「筈」の形で、相手の体を下から捉えます。寄り切りは、相手に体を密着させ、前や横へ進んで土俵外へ出す技です。
押し合いから組み合いに変わると、廻しをつかむ位置が攻防の中心になります。相手の腕の外側から廻しを取るのが上手、内側から取るのが下手。上手投げは上手で廻しを引き、体を開いて相手を投げます。下手投げは、内側から取った廻しを引き付けて投げる技です。
日本相撲協会の「決まり手八十二手」には、技ごとの図と解説があります。押し出しと寄り切りの図では両者の距離、上手投げと下手投げでは腕が交差する位置が描き分けられています。
行司の筆、呼出の土俵づくり――本場所を支える仕事
名前を呼ぶ人が土俵も築く
白い扇を開き、東西の力士の名を呼び上げるのが呼出です。本場所では土俵を整え、太鼓を打つ仕事も受け持ちます。あの丸い土俵を作っているのも、呼出たちです。
2022年1月5日に国技館で開かれた土俵築見学会の記録には、若い呼出が俵を一つずつ作り、全員で土を踏み固める様子が残されています。作業は本場所のおよそ5日前。土を締める道具の中にはビール瓶もあり、手近な道具を使う仕事まで紹介されています。
土俵が完成すると、丸く埋めた俵が勝負の境界になり、その外側の砂には力士の足跡が残ります。呼出が箒で土俵を掃く動きも、次の一番へ向けて競技の場を整える仕事です。
出典:大相撲公式ファンクラブ・土俵築見学会の写真記録 、日本相撲協会・呼出一覧
行司の房の色と、足袋・草履の違い
行司にも、力士と同じように階級があります。軍配から垂れる房と、胸などに付けた飾り「菊綴じ」の色は、その階級を示すものです。十両格は緑と白、幕内格は紅白、三役格は朱。最高位の立行司の一人、木村庄之助は紫の房を使います。
足元にも違いがあります。幕下格以下は素足、十両格以上は足袋を履き、三役格以上になると草履を履きます。装束の模様は一人ずつ異なりますが、房の色や履物には階級ごとの決まりがあるのです。
土俵上で耳にする「ハッキヨイ」は、両者の動きが止まったときなどに発奮を促す掛け声。「ノコッタ」は、まだ勝負がついていないことを伝えます。力士がもつれ合う場面でも、行司は近くで体の動きを追い、勝敗が決まった直後に軍配を上げます。
翌日の対戦を書く行司と「顔ぶれ」
軍配を持って取組を進める行司は、筆文字の仕事も担います。翌日の対戦を記した「顔ぶれ」は、幕内の土俵入りの後に土俵上で披露するものです。2022年の見学会では、木村要之助が相撲字の書き方を説明し、行司たちが板番付や顔ぶれを作るところを公開しました。
勝敗を残す記録には「巻」というものもあります。そこでは、力士の名前の上に負けた相手、下に勝った相手を記します。同じ筆文字でも、地位を示す番付、翌日の組み合わせを知らせる顔ぶれ、一番ごとの結果を残す巻と、用途に合わせて紙面が作られています。
行司の仕事は土俵入りの先導や土俵祭の祭主にも及びます。力士とともに花道から現れ、土俵で軍配を上げる姿は、その多くの仕事のうち、観客の前で行う部分なのです。
出典:大相撲公式ファンクラブ・板番付と顔ぶれの制作 、日本相撲協会・定款第50条
銀杏の葉の形を作る床山の髪結い
力士の髷を結う専門職が床山です。髪を束ねて折り返すちょん髷に対し、先を左右に広げた髷が大銀杏。広がった部分が銀杏の葉に似ていることから、この名が付いています。大銀杏を結うのは十両以上の関取で、取組や公式行事の際の髪形です。関取も普段の生活ではちょん髷にしています。
協会の解説では、床山が大銀杏を結えるようになるまでには、個人差はあるものの5〜10年かかるとされています。髪の量が多い力士には、頭頂部を剃る「中剃り」を施し、髷の形を整えます。道具箱には形の違う櫛や鋏が並びます。
大銀杏を関取だけに認める決まりができたのは、大正時代の末期です。江戸時代の錦絵では、前から頭頂部を剃った月代のある力士と、剃っていない力士の両方が描かれています。現在は揃って見える髷の姿にも、衣装や土俵と同じく、時代ごとの変化がありました。
博物館に残る番付と相撲絵
一枚の紙に力士名を配した番付の歴史は、江戸時代へさかのぼります。相撲博物館が2018年の企画展で紹介したのは、1757年10月、蔵前八幡宮での興行の番付です。現存する縦型番付で最古とされ、六段の構成で、最下段には中相撲や前相撲が記されていました。
同じ展覧会には、元禄年間ごろの『辻相撲絵巻』も登場しました。野原や町の辻で相撲を取る人と、周囲で見物する人が描かれた絵です。勝負をめぐる騒動から幕府が禁令を出し、その後は勧進相撲を届出・許可制で取り締まるようになったという、興行の成り立ちをたどる資料でした。
江戸後期には、力士の姿を描く錦絵も数多く作られます。2026年の「江戸相撲の風景」で紹介された二代歌川豊国の絵は、1833年の阿武松の土俵入りを描いたもの。横綱を囲む二人の力士も大きく描かれ、化粧廻しの意匠が並びます。同展には、雷電為右衛門の道中羽織も出品されました。襟の「雷」の字と、背の家紋を備えた衣装で、取組以外の力士の装いを伝えます。
回向院の興行から現在の国技館へ
- 1684年富岡八幡宮の境内で勧進相撲が許される興行
- 1693年蔵前八幡(現・蔵前神社)が創建神社
- 1768年回向院で初めて勧進相撲を開催興行
- 1782年蔵前八幡の興行で谷風の63連勝が止まる興行
- 1833年回向院が春秋の興行の定場所に両国
- 1885年亀沢に野見宿禰神社を創建神社
- 1900年富岡八幡宮に横綱力士碑を建立神社
- 1909年旧両国国技館が完成会場
- 1925年財団法人大日本相撲協会が誕生組織
- 1927年東京と大阪の相撲協会が合併組織
- 1928年仕切時間と仕切線を設定土俵
- 1931年土俵の直径を15尺に拡大土俵
- 1936年回向院に力塚を建立慰霊
- 1946年旧国技館で最後の大相撲興行、双葉山の引退披露会場
- 1952年四本柱から吊り屋根と四色の房へ土俵
- 1953年野見宿禰神社を再建、横綱記念碑を建立神社
- 1954年蔵前国技館と相撲博物館が開館会場・展示
- 1982年最初の両国国技館の建物を解体会場
- 1985年1月現在の両国国技館が開館、博物館も移転両国
- 1992年旧国技館跡に両国シティコアが完成両国
雨天順延の興行に、常設の屋根ができるまで
境内に相撲場を設けた時代、興行は雨に左右されました。番付に記された「晴天十日之間」は、晴れた日に十日間開くという意味です。1909年に常設の国技館ができると、表記も天候を問わない十日間へ変わりました。
旧両国国技館を設計したのは、東京駅などで知られる辰野金吾と、共同で設計事務所を開いていた葛西萬司。大きな屋根から「大鉄傘」とも呼ばれた建物です。その後は蔵前へ会場が移り、1954年に蔵前国技館が完成しました。ただし本場所は、建設途中の1950年から開かれています。
現在の国技館を建てた鹿島建設の記録には、土俵とマス席を格納する設備も紹介されています。1985年の落成式では、式典の途中に土俵を地下へ収めて会場を切り替え、出席者を驚かせました。相撲以外のコンサートや式典も開けるのは、こうした転換の仕組みがあるためです。
出典:鹿島建設・国技館の建設史
四本柱の撤去と、広くなった土俵
土俵の形も変わってきました。1931年、直径は13尺から15尺、約4.55メートルへ拡大され、二重だった俵の輪も一重に改められました。1952年には四隅の柱がなくなり、吊り屋根と四色の房へ変わります。柱が立つ古い相撲絵と、いまの中継画面の違いは、競技場そのものの改修によるものです。
相撲協会の組織では、1925年に財団法人大日本相撲協会が誕生し、1927年に東京と大阪の相撲協会が合併しています。両国の興行場が屋内施設へ変わる一方で、大相撲の運営や競技の形も整えられていきました。
千代の山から千代の富士へ、弟子へ渡った衣装
秋の相撲博物館で取り上げる千代の山は、1926年に北海道福島町で生まれた第41代横綱です。展示される横綱推挙状は、昇進の決定を相撲協会が担うことになった1951年の制度変更後、初めて横綱となった人物の記録でもあります。
九重部屋は1967年、台東区柳橋の料亭「花月」で開かれ、稽古には相撲教習所の土俵を借りていました。展示ではこのころの弟子たちの写真も並んでいます。
第58代横綱・千代の富士の横綱在位は、1981年9月から1991年5月まで。蔵前から両国へ国技館が移った時期に活躍した力士です。展示品の一つには、1988年の53連勝を記念した化粧廻しがあります。
野見宿禰
『日本書紀』に登場する相撲の神様です。天皇の前で當麻蹶速と相撲を取って勝ったと伝わり、亀沢の野見宿禰神社に祀られています。
千代の山
第41代横綱です。1926年に北海道福島町で生まれ、1951年に横綱昇進を相撲協会が決める制度で初めての横綱になりました。九重部屋の師匠として弟子を育てています。
北の富士
第52代横綱です。出羽海部屋から九重部屋へ移り、1970年三月場所に玉の海とともに横綱へ昇進しました。二人の時代は「北玉時代」と呼ばれます。
北の湖
北海道壮瞥町出身の第55代横綱です。師匠の三保ケ関が絵を描いて贈った着物が、2026年の企画展「芸術と相撲」で紹介されました。
千代の富士
千代の山と同じ北海道福島町出身の第58代横綱で、九重部屋に所属しました。1988年に達成した53連勝の記念の化粧廻しが、秋の企画展に並びます。
出典:相撲博物館「生誕100年 千代の山とその弟子」 、日本相撲協会・歴代横綱 、千代の山 、北の富士 、北の湖 、千代の富士 、野見宿禰神社 、相撲博物館「芸術と相撲」
映像と相撲の品々で楽しむ両国
公式映像で見る国技館の館内
日本相撲協会の公式チャンネル「SUMO PRIME TIME」には、国技館を案内する映像があります。吊り屋根や優勝額、相撲博物館に加え、普段は観客が入らない支度部屋なども紹介する内容です。一般見学では入れない場所は、この映像で内部を見られます。
取組の結果や番付は日本相撲協会のサイトに掲載されます。「力士を探す」では四股名や出身地から検索でき、旧四股名でも絞り込めます。
地下で焼く、国技館名物の焼き鳥
国技館の名物の一つが、肉の串三本とつくね二本を詰めた焼き鳥です。蔵前国技館の時代から親しまれ、現在は両国国技館の地下で作られています。二本足で立つ鳥は、手をつくと負ける相撲で縁起がよいとされてきました。
墨田区の子どもPR大使が2022年に工場を見学した記録では、たれを四回付ける工程や、焼いた肉を急速に冷やす工程を紹介しています。焼きたてをすぐ出す店の串とは違い、観戦中や持ち帰った後にもおいしく食べられるように作る会場の名物です。
一月場所のグルメ案内には、国技館カフェと館内の飲食売店が販売場所として掲載されています。館内では力士にちなんだ弁当なども販売されます。
出典:日本相撲協会・国技館グルメ 、墨田区・国技館の裏側レポート
化粧廻しの下絵と職人の仕事を読む
衣装の制作を詳しく知りたい人には、2026年刊行の『相撲とデザイン SUMO and DESIGN』があります。化粧廻しと、四股名などを染め抜いた着物を扱う本で、完成した衣装だけでなく、下絵やデザイン図案も掲載しています。
取材先には、化粧廻しを仕立てる長谷川商店、京友禅の老舗・千總、締め込みを織る錦旗が登場します。力士や贈り手の希望が図案となり、織りや刺繍を経て衣装になるまでの仕事を紹介する内容です。手芸好きで知られる玉鷲のインタビューも収めています。
相撲博物館の所蔵品も収録し、宝石をあしらった常陸山の化粧廻しなどを写真で掲載しています。オールカラー208ページ、日本語と英語の併記で、トゥーヴァージンズ刊。書店や書籍通販で購入できます。
出典:出版社による『相撲とデザイン』の紹介 、トゥーヴァージンズ・書誌
師匠が絵を描いて贈った、北の湖の着物
相撲博物館の2026年1〜4月の企画展「芸術と相撲」では、北の湖の着物を紹介しました。絵を描いたのは師匠の三保ケ関国秋で、現役時代の四股名は増位山。弟子の北の湖を育てた師匠が、着物を贈る際には絵の描き手にもなったという品です。三保ケ関は、趣味の絵で二科展に入選する腕前でした。
同じ企画では、松林桂月や片岡球子の原画による横綱の化粧廻しも取り上げています。力士の装いには、刺繍や染織の職人だけでなく、画家や師匠の手も加わっています。
出典:相撲博物館「芸術と相撲」
本場所のない日にも利用できる売店
国技館の大相撲グッズ売店は、本場所の開催期間以外にも営業します。営業日は博物館と別のカレンダーで案内されています。本場所中は入場者向けの売店になるため、買い物だけの来訪なら本場所以外の営業日を選びます。
日本相撲協会の公式通販「SuMALL」でも相撲グッズを購入できます。両国で見た力士の四股名や似顔絵を使った品、日常で使う雑貨などを扱っています。
出典:日本相撲協会・売店案内 、SuMALL
研究所メモ|ビジネスの視点から:観戦のない日に公開する収蔵品
相撲博物館は、現役時代の衣装や番付を保存し、年3回の企画展で公開しています。2026年秋は千代の山を起点に弟子たちまで取り上げ、化粧廻しの継承を通して複数世代のファンが訪ねられる内容にしています。
競技や地域の資料を生かすなら、保管品を並べるだけでなく、「誰から誰へ渡ったか」「どの節目で使ったか」を展示の軸にする方法があります。選手の現役引退後も、衣装や写真を次の世代の話と結び付けて公開する点が、他のスポーツ施設にも参考になります。
相撲興行と各施設の公式資料
よくある質問
本場所がない日にも国技館へ行けますか?
相撲博物館の開館日や、大相撲グッズ売店の営業日に利用できます。通常の博物館入館ではアリーナへは入れません。
大相撲は、毎月両国で開かれますか?
両国国技館での東京本場所は一月・五月・九月です。三月は大阪、七月は名古屋、十一月は福岡で開かれます。
相撲博物館は無料ですか?
通常期間は無料です。東京本場所中は大相撲の観覧券が必要で、引退相撲などの日にも入場券が必要になる場合があります。
博物館は土曜日や日曜日も開いていますか?
原則は休館ですが、東京本場所中や一部の催しの日には開館します。開館時間と合わせて、日付別カレンダーに掲載されています。
化粧廻しと取組用の廻しは同じですか?
現在は別のものです。前に大きな飾りを垂らした化粧廻しは土俵入りに着け、取組では競技用の廻しを締めます。
野見宿禰神社の御守はどこで受けられますか?
国技館1階の相撲博物館展示室に授与所があります。授与時間は博物館の開館時間に準じます。
相撲写真資料館は、いつ開いていますか?
開館日は毎週火曜です。東京で本場所が開かれる1月・5月・9月は、場所中毎日開いています。場所ごとに約70枚の写真を入れ替えて展示しています。
富岡八幡宮の御本殿は、いま参拝できますか?
2026年3月から2027年6月(予定)まで御本殿の大改修工事が行われ、仮囲いに覆われています。神社の案内では、新しく建てる客殿を約1年間、仮の御本殿として使うとしています。
回向院にある力塚は、力士のお墓ですか?
歴代の相撲年寄を慰霊するため、1936年に相撲協会が建てた碑です。新弟子が力を授かるように祈る場所にもなっています。



